バルビゾン派の代表画家、右下の写真「落穂拾い」などの農民画で知られるミレーをご紹介いたします。 ジャン=フランソワ・ミレー(Jean-François Millet)は 1814 年にフランスのノルマンディー地方、グリュシー村の農家に 生まれました。幼少のころから農作業はミレーにとって馴染み深いものだったので、こうした体験がのちに彼の作品の源泉となったと言われています。
9 人兄弟の長男として跡継ぎになることが期待されていましたが、教師から才能を見出され、その後、奨学金を得てパリの国立美術学校に進みます。
1840 年に肖像画でサロン・ド・パリに初入選し、その当時住んでいたシェルブールで、肖像画の注文を次々受けて制作しました。最初の妻ポーリーヌと結婚し、パリに引越しましたがまもなく彼女は結核で亡くなり、落胆したミレーはパリを去ります。その後、再婚したカトリーヌと共に 1845 年に再びパリに移り住み、そこでのちのバルビゾン派となる画家のルソーやトロワイヨンらと出会います。 1848 年、2 月革命によって美術界も民主化が進み、ミレーは支援者を得ます。この年のサロンに出品した農民画「箕 をふるう人」が好評を博し、ミレーは政府からも注文を受けるようになりました。
1849 年、パリでコレラが大流行したことにより、ミレーは家族を連れてバルビゾンに引越し、先に滞在していたルソー らと制作活動を共にします。1851 年のサロンで「種まく人」が入選しましたが、これが農民の悲惨な生活を訴える政 治的なメッセージを含むと受け取られ、激しい論争の的となりました。次いで 1857 年のサロンに「落穂拾い」を出品し ましたが、これもまた零細農民を描いたとして、政治的な議論を巻き起こしました。
紆余曲折ののち 1864 年のサロンに出品した「羊飼いの少女」が絶賛され、これを機にミレーの評価は一気に高まり ます。1867 年のパリ万国博覧会では会場の一室を与えられて 9 点の代表作を展示し、巨匠としての名声を確立しま した。
しかし、その数年後、急速に健康状態が悪化して、1875 年に家族に看取られながら亡くなりました。享年 60 歳。 ミレーが 1860 年に 1000 フランで売却した油彩「晩鐘」は、死後の 1889 年に 55 万 3000 フランで落札されました。 さらに彼の作品は 20 世紀後半には N.Y.のサザビーズでパステル画でありながらも 72 万 5000 ドルという高値で取引 されるようになりました。
■バルビゾン派とは
1830 年から 1870 年頃にかけてフランスで発生した絵画の一派。フランスのバルビゾン村やその周辺に移り住み、風 景画や農民画を写実的に描いた画家たちの総称です。
■ジャン=フランソワ・ミレー(Jean-François Millet)
生没年 1814 年 10 月 4 日- 1875 年 1 月 20 日
作品タイトル 「The Gleaners/落穂拾い」 1857 年製作
オルセー美術館(パリ)所蔵
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