教養講座「新渡戸稲造博士 その波乱万丈の人生と、カナダとの関わり」開催報告

去る9月15日(水)の午後、日系センター(松ルーム)で「新渡戸稲造博士-その波乱万丈の人生と、カナダとの関わり」と題する講演会が開催されました。参加者は22名、講師は我が桜楓会会員の矢野修三さんでした。コロナ禍での厳しい衛生規制の中、2年近く講演会は開催できませんでしたが、今回久しぶりに参加者にお集まりいただく中での講演会となりました。
講演は新渡戸稲造博士の生い立ちと、生涯をかけて実現しようとした、「願わくは、われ太平洋の橋とならん」という理念、そしてそれにまつわるエピソード、新渡戸稲造博士とカナダ・バンクーバーとの関わりといった重層的な構成で進行しました。
幕末の動乱期の生まれで、しかも岩手・南部藩(盛岡藩)の出身という事は、それだけで新渡戸稲造の波乱に満ちた生涯を想像させるに十分なバックグランドです。南部藩は明治維新の中枢である薩摩・長州・土佐・佐賀などの勢力に抵抗する、奥羽越列藩同盟の要の存在でした。明治新政府のかつての敵対勢力だった南部藩の出身という事が、将来大きな障害になるのではないかと考えたであろう母親の強い勧めで、新渡戸稲造は学問の道に進みます。
明治10年、15歳になった新渡戸稲造は札幌農学校(現北海道大学)に入学します。そして明治16年、21歳の時に東京大学に入学します。翌年に私費でアメリカに留学。そこで、後に妻となるメアリーと出会います。この結婚に反対するメアリーの両親や親族、ひいては周囲のアメリカ人に日本を知って欲しいと執筆したのが、あの有名な「BUSHIDO(武士道)」でした。英語で上梓され、日本語訳ができたのはずっと後の事です。
その後、明治34年、39歳の新渡戸稲造は後藤新平に招聘されて台湾に渡り、砂糖キビの改良に努めます。36歳の頃に「農業本論」を出版したりしていますので、農業に関する造詣も深かったと思われます。それから第一高等学校の校長、東京女子大学の初代学長、国際連盟事務次長、貴族院議員などを歴任した後、太平洋問題調査会理事長に就任します。そして、昭和8年(1933年)71歳の時に出席したカナダ・バンフでの第5回太平洋問題調査会の帰途、カナダ・ビクトリアで病気のため、帰らぬ人となってしまいます。その頃は日本に帰るには、ビクトリアからの船を利用していました。
葬儀はバンクーバーで行われました。当時、バンクーバーよりも反日感情の強かったビクトリアでの葬儀を避けたのだと思われます。講師の矢野さんが集めた資料から推察するに、実はビクトリアの病院では新渡戸稲造の治療はほとんど行われず、メアリー夫人と看護師一人が看病していたのではないか、という話には少なからず衝撃を受けました。
そうしたことから、バンクーバーの日系移民の人々や総領事館などが協力して、新渡戸稲造の功績を称え後世に残すために日系庭園を造ろうとしました。当初はスタンレイパークに造るという案もあったようですが、日系人への差別や偏見、そして暴力的攻撃まであるといった激しい反日感情の中、結局あまり目立たないUBC構内に造ることになりました。1944年に、かつて国際連盟で新渡戸稲造と一緒に仕事をしていたノーマン・マッケンジーがUBCの総長に就任します。それをきっかけに、UBC構内の新渡戸紀念庭園は整備されていきます。
太平洋の橋(かけはし)たらんとして全身全霊を傾けて仕事をしてきた新渡戸稲造でしたが、戦雲が立ち込め反日感情が渦巻く中で日本人として疎んじられ、一方で日本の軍部からは国際派として危険視されるという理不尽な環境の中で、日本からはるか離れたビクトリアで客死してしまいます。明治維新の直前、日本開国を迫りその条約締結のために下田に滞在していたアメリカの駐日領事のハリスが、病弱な自分の看病のためにお吉を雇い入れるのですが、どういう事情か、お吉は数日で暇を出されます。実家に戻ったはいいが、周囲はハリスとの関係を誤解してお吉を疎んじます。生活が荒れ、結局お吉は入水してしまうのですが、そうした境遇を自分と重ね合わせたのか、新渡戸稲造は下田を訪れ、お吉の慰霊にと地蔵の建立を依頼しています。
こうしたエピソードも矢野さんの口から語られると実に興味深く、身を乗り出して聴いてしまいます。他にも初めて聞くようなエピソードも多く、あっという間の2時間でした。
参加された方々も大いに満足されたようで、講演会終了後もあちこちで話の輪ができていました。ほぼ2年ぶりの講演会はこうして成功裏のうちに閉幕しました。またこうした機会を作って欲しいといった参加者からの声があったことをご紹介して、報告を終わります。
(記・久保克己 写真提供:渡嘉敷優子(上)、吉武政治さん(下))