講師 丸尾豪司(桜楓会役員)
講座名 「疑え!そこの常識 想像力について」
日時 2月24日(月曜日)午後7時~8時半
形式 ズームによるオンライン
内容 芸術についてのレクチャー
① 芸術の思い込み、刷り込み、固定観念
② ある日本画家
会費 桜楓会員は無料 会友は5ドル
申し込み 下記のリンクからお申込みください。
https://forms.gle/9RoLRWfvmAj6yEdC6
参加希望の方は必ず申し込みリンクからのご登録をお願いします。
丸尾の教養講座は今回よりオンラインで行うこととなりました。アプリとしてはズームを使用します。参加ご希望の方にはズームのリンクをメールでお送りしますので、それをクリックしていただくだけで、コンピューターの画面が開くと思います。 今回は平日の夜からの開始となりますが、これまでどおり多数の方々のご参加をお待ちしております。
「想像力は知識に勝る」(アインシュタイン)
これまでの講座では、主に芸術鑑賞における予備知識の大切さを説いてきました。一つの作品に触れる際に、何も知らないよりも、いくつかのことを頭に入れてからの方が豊かな鑑賞ができるというのが主な趣旨でした。おかげさまで、ご参加いただいた方々からは「何度も触れてきてよく知っているつもりの作品に、そんな意味や背景があったとは驚きだった。」「目から鱗が落ちるような思いだった。」といったご感想を多数いただきました。今回は、その知識という項目に加え「想像力」の大切さにフォーカスしてみようと思います。
谷川俊太郎の謎~思い込み、刷り込みということ
去年亡くなった有名人の中に詩人の谷川俊太郎がいます。私は、一度だけ面と向かって谷川さんと会話をしたことがあります。話は十数年前にさかのぼります。テレビ番組「題名のない音楽会」を見ていたときのことでした。当時の司会者だった佐渡裕(指揮者)さんが、その日のゲストの谷川さんにこんな質問を投げかけました。「先生の詩は何を表現しているのですか?」 谷川さんは、間髪を入れずただ一言だけきっぱりと返答しました。「何も表現していません!」と。
あれほど多くの人の心をつかみ、次から次へと谷川ファンを増やし続けている大詩人が何も表現していない?それはいったい どういうことだ?この疑問が私の頭の中に深く刻み込まれました。時は巡り、何年も経て、謎を解くチャンスが巡ってきました。 阪神間のある学校で谷川さんの講演会が開かれることになったのです。当日、会場に足を運んだ私は、講演後の質疑応答で真っ先に手を挙げ、長年の疑問についてご本人に直接お尋ねしたのでした。(「面と向かっての会話」とはいうものの、広い体育館のステージと最後部の座席の間で、お互いにマイクを持っての会話でした。)
谷川さんのご回答は次のようなものでした。「まずテレビ番組は時間との戦いなので、あの場面で長々と説明するのは不可能だった。また、作品というものは、読む人にさまざまな思いや考えを抱かせるもので、作者のそれとは違う受け取り方をされることもよくある。しかし、そのすべてが正解とも言える。つまり決まりきった解答があるようで、ないのと同じである。だから、結果的に何も表現していないという言い方になった。」そんな含蓄あるお言葉に長年の疑問が氷解していく思いでした。
文学作品にとどまらず、人間の表現行為や作品は、一定の意味や理解をもって受け止められている。一般にはそう思われています。そういう解釈が間違いではないにしても、それが全てでもない。思考停止の固定観念で触れることによって、作品は かえって何も語らなくなる。きっと谷川さんはそう言いたかったのだと思います。
後に谷川さんは、近年の社会問題にもなっている子どもの自死を取り上げた絵本「ぼくはしんだ ひとりでしんだ」を出した際も、やはり「何も表現していない。」と語っていました。そこには、「分かったつもり」に対する強い気持ちが表れていたように思います。それにもかかわらず、いや、それだからこそ、この絵本は読者の内面に深く切り込んでくる作品となっています。
ことばの力を信じ、常に問いを発し続け、92年の生涯を全うされた谷川俊太郎さんのご冥福をお祈りいたします。
「学びて思は(ワ)ざれば則(すなわ)ち罔(くら)し 思ひ(イ)て学ばざれば則(すなわ)ち殆(あやう)し」(孔子)
作品鑑賞において知識の大切さを唱えてきた私ですが、今回はさらに一歩進めて、知識一辺倒によって陥る「思い込み」や「固定観念」という思考停止の持つある種の危険性についても、お伝えできればと思います。
上記の孔子の言葉の現代語訳は次のようなものです。
(記 丸尾豪司)
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