「アメニモマケズ」や「注文の多い料理店」などで知られる詩人で作家の宮沢賢治は、実は無類の音楽好きでした。当時、成人の初任給の半分近くを出費してもやっと1枚買えるかどうかというほど高価だったレコードを何枚もコレクションし、これまた当時としてはまだ珍しかった楽器のチェロ(セロ)を購入。あまつさえプロ奏者にレッスンまで受けるという入れ込みようでした。また楽器演奏だけでは飽き足らず、素人ながら作曲にも手を染めていました。彼の作った楽曲のいくつかは、今、演奏家たちのレパートリーにもなっています。
賢治のレコード鑑賞曲の中でも特にお気に入りだったのがベートーヴェンです。繰り返し楽聖のレコードを聴きながら「このベートーヴェンってやつはたいしたもんだ」と何度も友人に語っていた彼の口癖は「おれもいつか、人を感動させるこんな作品を書かなくてはならない。」というものでした。後年、それは文学作品として実を結ぶことになります。
賢治の写真の中で、黒いコートに黒いハットをかぶって土の上にたたずむ一葉が有名ですが、これには裏話があります。賢治は一時、農業学校の教師をしていたことがあります。当時まだ珍しかったカメラを手にした同僚が賢治を写そうとしたところ、彼はあわてて更衣室に戻り、黒装束に身を包んで登場。そして学校の畑に移動して、うつむき加減に土を見つめるポーズを取って撮影させたのでした。
このとき、彼の頭の中にあったのは、帽子とコートを羽織って、アメニモマケズ カゼニモマケズ、来る日も来る日も自然の中を散策するベートーヴェンの姿だったのです。
子どもや若者が、映画のヒーローやアイドル歌手に憧れて、そのしぐさやファッションを真似るように、賢治にとってのベートーヴェンも、まさにヒーローにしてアイドルだったのでしょう。
毎日森の中を歩き、自然界と交流していた時期のベートーヴェンの代表作に「田園」の名を持つ第六交響曲があります。
のちに賢治が著した「セロ弾きのゴーシュ」は、彼の音楽好きの一端が窺われる作品ですが、ここに登場する「第六交響曲」は、作曲者名こそ登場しませんが、「田園」のことであろうというのがもっぱらの解釈です。
「火垂るの墓」でも知られる高畑勲監督によるアニメ映画「セロ弾きのゴーシュ」では、作中音楽として、まさに「田園」が効果的に使用されていました。
賢治作品の映像化と言えば他にいくつもありますが、初期のものに、大泉崑などが出演した実写版「風の又三郎」(1940年)があります。桜楓会の皆様の中には、これをご覧になった方もいらっしゃることでしょう。
映画にも出てきた「どっどど どどうど どどうど どどう」という風の唸りを表したようなオノマトペ(擬声語)はよく知られたものですが、賢治の作品には、このように一風変わった音の表現がふんだんに登場します。この「音」へのこだわりこそ、彼が音楽から受け取った大きな賜物の一つと言えます。
「光でできたパイプオルガン」などの作品のタイトルにも音楽への傾倒ぶりが感じられますし、「銀河鉄道の夜」の登場人物ジョバンニとカムパネルラは、それぞれモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」(歌劇)とリストの「ラ・カンパネラ」(ピアノ曲)からその名を取られたという説があります。
賢治の出身地、岩手県花巻市の宮沢賢治記念館には、賢治所有だったチェロや愛聴のレコードも展示されていますが、このレコードにもあるエピソードが伝わっています。当時、クラシック音楽のレコードは日本では製作されておらず、そのすべてを輸入に頼っていました。そして、非常に高価なレコードは庶民にはなかなか手の出ない高嶺の花だったのです。
そんな中、ドイツのレコード会社が奇妙な報告を受けました。極東の小さな国で自分たちの作ったレコードがコンスタントに売れているというのです。しかも、東京のような大都市ではなく、もっと小さな町の小さなレコード店で集中的に購入されているとのことでした。のちにこのレコード店は販売業績によってドイツの会社から感謝状を受け取ることになるのですが、実は売れたレコードのほとんどを買っていたのは賢治一人でした。
高価な西洋楽器やレコードを賢治がぜいたくに購入できた理由の一つに、彼が土地の有力者の富裕な家庭の生まれだったことが挙げられます。貧しい農村地帯のとびぬけて豊かな家に生まれたことが賢治を音楽の世界に導くとともに、また彼を深く苦しめることにもなります。しかし、その苦しみが彼の人生観や宗教観を決定し、さらには文学の創作にもつながっていくことになるのですから、賢治の人生は表と裏で出来上がったコインのようなものだったと言えるでしょう。
一見恵まれた環境に由来するこの毀誉褒貶の姿は、太宰治や中原中也などと通じるものがあるかもしれません。
賢治の作った楽曲のうち、最も名高いものが「星めぐりの歌」です。これは世界的チェリスト藤原真理の大切なレパートリーとなっています。また高倉健の映画「あなたへ」の中で、女優の田中裕子がアカペラ(無伴奏)の沁み入るような声で歌っていたのも印象的です。NHKの「名曲アルバム」でも取り上げられたことがあります。今は歌や器楽など、いろいろな演奏をユーチューブで楽しむことができます。
https://youtu.be/9yq9XMX_ZuUリンク 「星めぐりの歌」
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