オリンピックと第9  ベートーヴェンのメッセージ 生誕250年メモリアル②

開催まで紆余曲折の東京オリンピックでしたが、やっとというか、ついに開幕しました。日本でオリンピックが開かれるのは、冬も含めてこれが4回目となります(1940年の東京大会は戦争のため中止)。前回の長野オリンピックでは、開幕の音楽も大きな話題となりました。小澤征爾の指揮で、五大陸(五輪がシンボル)を衛星通信で結んで、開幕音楽を同時演奏するという画期的なパフォーマンスでしたが、この時の曲が「よろこびの歌」で知られるベートーヴェンの「第9」(交響曲第9番)でした。
昨年開かれるはずだった東京オリンピックの開幕にも、第9の演奏が予定されていましたが、これだけにとどまらず、オリンピックでは過去に第9が演奏されることがよくありました。その最大の理由として、歌詞の中に「すべての人類は兄弟となる」という予言的な言葉が書き込まれているからだと言われます。つまり平和を標榜する世界大会にふさわしい音楽が「人類愛の賛歌」としての第9ということになるわけです。EU(ヨーロッパ共同体)のシンボル曲としても、第9の「よろこびの歌」のメロディーが使われていましたが、これもおそらく同じ理由からでしょう。(編曲は指揮者のカラヤン)
https://youtu.be/kjX9QAGwiK8 EUアンセム(よろこびの歌)
前回(5月)は、1年遅れの生誕250年メモリアルの①として「ベートーヴェンは危険分子だった」について少し触れましたが、今回は第9にからんだその話題について触れてみたいと思います。


第9に秘められた政治的メッセージ
第9はベートーヴェンが晩年に書いた曲で、オーケストラだけでなく歌手や合唱を伴う大曲です。歌の部分はシラー(ドイツの詩人)の「歓喜に寄す」という長い詩をテキストにしていますが、ベートーヴェンは、十代半ばでこの詩に出逢い、深い感銘を受けます。第9を完成したのが54歳のときですから、この詩は実に長い時を経て、彼の中で熟成していったことになります。

シラーがこの詩で伝えようとしたのは、抑圧からの「自由」でした。しかし、当局の弾圧を避けるべく、詩の中の「自由」という言葉(Freiheitフライハイト)を「歓喜」(Freudeフロイデ)に置き換えて発表したため、摘発は避けられたものの、内容があいまいで、難解なものになってしまったのもまた事実です。
シラーがこの詩を発表した頃、隣国フランスで革命が起きていました。団結した一般市民が王侯貴族を倒して、自由や平等を獲得したこの事件以来、他の国の王室や支配層の間には、人権を求める市民の動きを警戒する不穏な空気がありました。
ベートーヴェンの先輩に当たるモーツァルトに「フィガロの結婚」という、今でも人気の高いオペラがあります。これは権力を笠に着た領主を、その屋敷で下働きする平民たちが結託してやりこめてしまうという内容だったため、彼が暮らすオーストリアでは上演禁止の憂き目に遭っていました。しかし、隣国ボヘミア(現在のチェコ)では「フィガロの結婚」は、大いにもてはやされ、町では誰もがこのオペラのアリア(歌)を口ずさんでいました。これは、日頃から自分たちを支配統治するオーストリアの特権階級に、ボヘミアの人々が不満を持っていたからで、物語の中とは言え、この作品で留飲を下げることができたのでした。この地を訪れたモーツァルトが、歓待された喜びとともに、そんなボヘミアの様子を手紙に書き残しています。そして、これがベートーヴェンになると、身分制度撤廃について、さらに過激な言動を見せるようになっていきます。彼は、今で言うインフルエンサー的な立場の人物だったと言えます。


危険人物ベートーヴェン
ベートーヴェンは人生の半ばから難聴になり、晩年はほとんど何も聞こえなくなっていたようで、会話は筆談で行っていました。その時使用されたメモがいくつも残っているため、彼がどんな会話をしていたのかを、ある程度知ることができます。日常会話での他愛無いやりとりなどが多いその中に、第9発表前のこんなメモが残っています。大きな声で話してはいけない。君の後ろの席にいる客は政府のスパイで、聞き耳を立てているから。これは、居酒屋でベートーヴェンと筆談する知人が書いた、彼に対する忠告のメモですが、この一件からも、ベートーヴェンが自由思想を持った危険人物として、当局からマークされていたことが伺えます。
また当時は、劇場用の作品や小説などの新作を発表する際、その表現内容について、事前に政府に届けることが半ば義務化されていました。今で言う検閲をパスしないと発表できない仕組みです。そして、ここでも「自由」を謳う作品には厳しい目が向けられていました。第9の内容を考えると、政府への内容申告をした方が無難なはずでしたが、ベートーヴェンは、自分の身に危険が及ぶ可能性も承知の上で、あえて申告を避けたのでした。今から約200年前の第9の初演は、「失敗作だ」などという厳しい批評が翌日の新聞には並んだものの、一般市民が大半だった聴衆は、この作品に熱狂して作曲者を称えました。それは、この作品に込められた「自由と平等の希求」という彼の真意に、市民たちが共感したためだったとも言われています。


ベルリンの壁と第9                                     このように、実は政治的なメッセージ性の強い第9ですが、初演から150年以上後に、「自由の中で人類は兄弟となる」ことをあらためて予感させる出来事がありました。それは、ベルリンの壁が崩壊した1989年のクリスマスのことです。その夜、壁崩壊を記念する第9コンサートがベルリンで開かれましたが、これは現地の東西ドイツ以外に、米ソ英仏の4つの国の選抜メンバーで作られた臨時オーケストラと歌手と合唱団による演奏でした。この組み合わせは、第二次世界大戦で、敵として戦ったドイツと連合国側が一つになるということをイメージしたもので、さらに、歌詞の中の「喜び」を「自由」に代えるという趣向まで凝らされていました。それは、「自由」を求めてこの詩を書いたシラーの思いが、初めて公の形になった瞬間だったとも言えます。                                                 この時の指揮者は、アメリカのレナード・バーンスタイン。彼は、長年にわたって、社会や政治についての発言や行動を繰り返してきた人物で、作曲家でもありました。それまでは娯楽としてしか見られてこなかったミュージカルの世界に、貧困や差別、人種問題などのシリアスなテーマを初めて盛り込んだ「ウエストサイド物語」は、彼の作品です。
このコンサートは、その後CDになって今でも聴くことができますが、日本では、ベルリンの壁の崩れた破片を付録として発売されたこともあります。また、当日の映像も残されていますが、それを見ると、人々が人類の未来に明るい希望を感じていたことがよく伝わってきます。ただ皮肉な言い方をすれば、それらはすべて「うたかたの夢」だったのかもしれません。20世紀後半の「東西冷戦」と今世紀の「テロとの戦い」や「サイバー攻撃」などに挟まれた、ほんのつかの間の・・・。
https://www.youtube.com/watch?v=ZrzsBnNaIng 「ベルリンの壁崩壊」記念コンサート(開催の趣旨についての解説付き)

シラーと「走れメロス」
シラーはゲーテと同時代の詩人で、両者は今でも並び称される存在ですが、日本ではゲーテほどには親しまれていないようです。ゲーテの多くの詩に曲をつけたシューベルトは、シラーの作品にも数多く作曲しています。その中の一つに「人質」という風変わりなタイトルの曲がありますが、これは太宰治の「走れメロス」の原作となった長詩です。(両者を読み比べると、登場人物たちの苦悩や葛藤などの心理描写において、太宰の一枚上手の手腕にきっと感服することでしょう。)同じシューベルトでも、ゲーテの詩に曲をつけた「魔王」や「野ばら」ほどではありませんが、シラーの「人質」も、時々演奏会で歌われる作品で、CDにもなっています。