齢を取ると、時の流れが早く感じられるとよく言いますが、「令和」の元号も、今年でもう5年目に入りました。
そして、立ち止まって考えてみると、21世紀もほぼ四半世紀が過ぎようとしているという事実に、あらためて驚愕する私です。
「令和」の由来は、大伴(おおともの)旅人(たびと)という歌人の「初春の令(れい)月(げつ)にして気淑(よ)く風和(やわ)らぎ・・・」という言葉から取られたということが、新元号の公表当時、メディアを賑わせたものでした。これは、奈良時代の歌集「万葉集」の「梅花の歌」序文の一部です。
中央官庁から命ぜられて九州の大宰府に長期出向した旅人の歌は、この梅花の歌を含め、4500首を数える万葉集の中に数多く収められています。その中には大宰府着任直後に亡くなった「妻を偲ぶ歌」数首も含まれます。 彼はよほど愛妻家だったと見えて、亡き妻を偲ぶ歌には、連れ添った伴侶への哀悼(あいとう)惜(お)くあたわざる思いが、切々と綴られています。
世の中はむなしきものと知る時し いよよますます悲しかりけり
意 人生が空しいものだとは分かっていたが、(妻を亡くして)ますます悲しみが増すことだ。
それは彼が任期を終え、都(奈良)に戻ってからも続きます。
人もなきむなしき家は草枕 旅にまさりて苦しかりけり
意 誰もいない空っぽの家は、苦しかった旅にもまして辛いものだ。
古代の旅は、事故や病気や盗賊などが満載の過酷極まりないものでしたが、妻のいない家はそれ以上に苦しいと訴えます。
わぎ妹子が植ゑし梅の木見るごとに 心むせつつ涙し流る
意 わが妻が植えた梅の木を見る度に、心が乱れ涙が流れる。
こういった歌から、彼らの死別は比較的若年だったような印象を受けるかもしれません。しかし、妻を亡くした時の彼は60代前半ですから、平均寿命が30代であった当時からすれば驚異的な高齢者だったということになります。(70歳を「古希」と呼ぶのは、その歳まで生きた人が「古来希(まれ)」だったからです。)傷心をかかえた旅人は、その後、66歳で世を去ります。
万葉集には、旅人の他にも「死者を偲ぶ歌」を詠んだ歌人が何人も登場しますが、故人を悼む愛惜の念は、1300年の時が流れた今も胸を打ちます。
胸を打つといえば、1990年に歌手の沢田知可子が歌った「会いたい」という曲が、その後、「21世紀に残したい泣ける歌」のランキング1位に輝きました。これは、急逝した恋人を想い、その悲しみを歌った曲ですが、30年以上経った21世紀、「令和」の今も愛聴され、カラオケでもよく歌われています。
https://youtu.be/YO639DJxD0k 会いたい 沢田知可子
https://youtu.be/SNmE8Brdm_A 会いたい ライブ
憧れの歌手になったまでは良かったものの、デビューしてもヒット曲に恵まれず、鳴かず飛ばずだった沢田の元に、ある日、新しい曲が届けられます。それは、彼女にとって歌手としての最後のチャンスでした。そして、歌詞を目にした沢田は愕然とします。そこには、まるで自分の恋愛体験をなぞるかのような言葉が連ねられていたからです。作詞家には一言も話した覚えがないのに…。
沢田には、高校時代、想いを寄せる男性がいました。それは、彼女がマネージャーを務める男子バスケットボール部の1学年上の部員でした。彼は沢田を子ども扱いしていましたが、常に優しく接してくれる良き先輩でした。恋人の関係ではなかったものの、沢田が本気で歌手を目指した時、誰よりもそれを応援してくれたのも彼でした。そんな先輩がある日突然、交通事故で帰らぬ人となります。さよならも告げずに目の前から去っていった愛(いと)しき人は、その後、ずっと彼女の中に生き続けていきます。
「あの人が今も私を応援してくれている気がした。」自分の元に届いたこの歌詞に、生前の彼との思い出が鮮やかに胸をよぎった沢田は、運命を感じ、やがてこの歌を歌い始めます。それは彼女にとって、まさに乾坤一擲(けんこんいってき)の歌でした。
曲は、徐々に人々の間に広まり、やがて大ヒットへとつながります。さらには、紅白歌合戦の出場という栄誉まで与えてくれたのでした。澤田はこの曲を「生涯超えられない歌」として、今も大切に歌い続けています。(沢田は後に澤田と改名)
はるか万葉の時代に生きた人々と何ら変わらぬ「亡き人への想い」。その深さをこの歌に感じる人はきっと多いことでしょう。
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