殺し文句に乗っちゃって・・・  「新世界より」 「アメリカ」  ドボルザーク

今からちょうど40年前の1983年。コカ・コーラを抜いて売り上げナンバーワンに躍り出たペプシ・コーラの社長を、一人の青年が訪ねてきました。「ここを辞めて私の会社の社長になってください。」彼は初対面の社長に向かってこう言いました。あっけにとられた社長の答えはもちろん「ノー」。しかし青年は諦めません。その後、何度も社長の元を訪れては説得を繰り返し、彼を引き抜こうとします。その熱意は通じても、どこの馬の骨ともしれぬ青年の、実績も何もない企業には一向に関心が湧かない社長です。ある日、青年は社長にこう投げかけます。「あなたは、一生そうやって砂糖水を売り続けるつもりですか。私と一緒に世界を変えたいとは思わないんですか。」それまでかたくなに青年の誘いを拒んできた社長の心がこの一言で揺れ始めます。やがて彼は世界的トップ企業を去り、この新興会社の社長に就任することになります。不可能を可能ならしめたこの青年の名はスティーブ・ジョブズ28歳。会社は言わずと知れたアップル社。同社のその後の隆盛ぶりは、どなたもご存じのとおりです。


ジョブズは、決して炭酸飲料を馬鹿にして砂糖水呼ばわりしたわけではありません。自分の志の実現に絶対に必要と見込んだ人物とタッグを組むべく、そのプライドを揺さぶるためにこう言ったのでした。このように、人の背中を押し、人生まで変える一言は、「殺し文句」の名で呼ばれます。殺し文句は、時には世界を変える一言になることもあります。
19世紀、ボヘミア(現在のチェコ)の作曲家ドボルザークの人気作品トップ3は、いずれもアメリカで生まれたものですが、そこにも殺し文句が深く関わっています。すでにボヘミアで音楽家として成功し、郷土の名士となっていたドボルザークですが、子だくさんの彼の生活は決して楽とは言えませんでした。そこに降って湧いたように、破格の報酬の仕事話が舞い込んできます。それはアメリカに新設される音楽学校の学長になってほしいというものでした。高額の給与は大いに魅力ながら、海の遥か向こうの異国の地に渡ることなど彼には到底考えられないことでした。そんな彼にアメリカ行きを決心させたもの。それが「殺し文句」です。「アメリカでは最新式の機関車に乗れますよ。」という。
ドボルザークは超がつくほどの鉄道マニアでした。鉄道についてのそのエピソードの数々は枚挙にいとまがなく、その多くは伝説と化しています。そんな彼が殺し文句に乗ってアメリカに渡り、そこで生み出した作品の一つが交響曲第9番「新世界より」です。「新世界」とは新大陸アメリカを指し、その新大陸からの便りといった意味合いが、この作品のタイトルです。「遠き山に日は落ちて」の歌詞で知られる日本のキャンプソングは、この作品の第2楽章が元になっています。
遠き山に日は落ちて https://youtu.be/RpyTlnbsdgM
「新世界より」第2楽章https://youtu.be/Ui5fkkkEkM4


この有名なメロディ一は、どこか寂し気で懐かしいものを感じさせます。それは、ドレミファソラシドのうち4つ目のファと7つ目のシが抜けているためで、こういう調べは「ヨナ抜き音階」と呼ばれます。ドボルザークの音楽が当時ブレークした理由の一つに、それまでの西洋音楽の中心にはなかったこの「ヨナ抜き音階」を大胆に取り入れていったことが挙げられます。アメリカの音楽学校のリーダーとして白羽の矢が立った理由も、ヨナ抜き音階の多いネイティブ・アメリカンの民謡や黒人霊歌などを元にして、音楽の後進国アメリカならではの新しい伝統を築いてほしいという願いからでした。後にドボルザークは「黒人の音楽にこそアメリカ音楽の未来がある」と予見しました。それは黒人の中から生まれたジャズ、ブルース、ソウル、R&B、ヒップホップなどによって実証されています。
ヨナ抜き音階を使って彼がアメリカで書き上げた傑作は、「新世界より」の他に、次の2曲が今でもたいへん人気があります。 
弦楽四重奏曲「アメリカ」 https://youtu.be/HrqgMrwG4i0  
チェロ協奏曲https://youtu.be/sNwL2k01Va8