天才は天才を知る 文豪と芸術

「智に働けば角(かど)が立つ。情に掉(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」
夏目漱石の小説「草枕」の冒頭です。どこに引っ越しても住みにくいと分かった時、そこに詩が生まれて絵ができる。だから人の世をのどかにし、心を豊かにする詩人や画家は尊い、というぐあいにこの文章は続いていきます。しかし、なぜかそこに音楽家は登場しません。最初期の「吾輩は猫である」や「坊ちゃん」といった小説の中で、イタリア・ルネサンスの画家たちや、イギリスの風景画の巨匠を題材にするなど、明治中期の日本人の中では並外れた教養を持っていた漱石ですが、音楽には関心の低い人物だったようです。一節では音痴だったとも言われています。

 
ところが、これが弟子の芥川龍之介になると事情は一変します。彼には息子が三人いました。後に作曲家となった三男によると、父の書斎には本の他にもレコードがたくさんあったそうです。レコードといっても、大正時代の話ですから、当時は78回転の盤(SP)で、電気式ではなくネジを巻く蓄音機でレコードを鳴らしていました。父の死後、三男はしばしば書斎に忍び込み、そのレコードを繰り返し聴いていましたが、そこには「ペトルーシュカ」や「火の鳥」など、当時の現代音楽であったストラヴィンスキーの曲がいくつか含まれていました。ストラヴィンスキーは1971年まで生きた人ですので、1927年に亡くなった龍之介が、いかに現代音楽に鋭敏な耳を持っていたか、そこからも十分知ることができます。そして最先端の現代音楽を子守歌として育ち、音楽とはこういうものだと思い込んでいた三男が、やがて入学した小学校の音楽の授業で、 ベートーヴェンを初めて聴いた時、そのあまりのシンプルさに拍子抜けしたそうです。


芥川(あくたがわ)也寸志(やすし)というこの三男は、父譲りからか文才にも恵まれていたようで、音楽エッセイの分野でも活躍しました。その中で、もし自分が人生の始まりの時期にベートーヴェンのような王道のクラシック音楽を聴いて育っていたら、音楽家になったかどうか分からないと語っています。

https://youtu.be/OJRfImhtjq4 ペトルーシュカ(ピアノ版)より ユジャ・ワン
https://youtu.be/ICv9IxrDhqE  バレエ「火の鳥」より「魔王カスチェイの邪悪な踊り」


この「邪悪な踊り」などは、たとえば映画「スターウォーズ」の「ダースベーダーのテーマ」と並べても、なんら違和感がないように聴こえます。しかし、両者には60年以上の時間の差があるのです。也寸志が作曲家として遺した作品の中には、父の名作「蜘蛛(くも)の糸」を題材にしたバレエなどもありますが、どちらかといえば映画やドラマの世界での作品が、今もよく演奏され聴かれているようです。中でもNHKの大河ドラマ「赤穂浪士」のテーマ曲は、このドラマのヒットにひと役買った名曲とされています。

https://youtu.be/a9ezSDzxX_A ドラマ「赤穂浪士」のテーマ


この曲は、パチンという音を出す「板ムチ」の効果と相まって、繰り返し反復されるリズムが一度聴くだけで耳に残るような作りになっています。これは彼の師匠であった作曲家から学んだ作風であるとともに、幼い頃の音楽の原体験、とりわけストラヴィンスキーの音楽が強く影響しているようです。


漫画家の手塚治虫にも「火の鳥」という作品があります。手塚が生涯に遺した膨大な作品群の中でも、「火の鳥」は傑作にしてライフワークの一つとして知られています。そして、これもまたストラヴィンスキーの「火の鳥」がもとになっています。


手塚は、戦後間もない頃、一面焼け野原だった大阪の奇跡的に焼け残ったある劇場で、このバレエを見て以来、すっかり魅了されてしまいます。戦時中は多くの人々の死に遭遇し、戦後は医者を目指して大学の医学部に籍を置いていた彼は、日に日に高じていく趣味の漫画のテーマとして「命」を強く意識するようになります。やがて漫画家になった彼は、超自然の存在である火の鳥が、狂言回しとして物語の要所要所に姿を現し、登場人物たちに働きかけたりヒントを授けたりするという、このバレエの構想を借りて、宇宙の過去から未来までの「命」を巡る壮大なドラマを打ち立てました。それが漫画「火の鳥」です。


私が、手塚の「火の鳥」と出会ったのは半世紀以上前のことですが、その時の強烈なインパクトは、今も自分の中で響き続けています。以前、日本の学校で教えていた頃、私は生徒たちによくこんな話をしたものです。「世の中は活字の本で溢れている。本を読めば頭が良くなるとか心が豊かになるとか言われているが、実際にはそうとは限らない。読んでも読まなくても何の影響もないような本もあれば、ただの流行りもので、いずれ忘れられていく書物も数知れない。そんな活字の本を読むヒマがあったら、むしろ、手塚治虫の『火の鳥』のような漫画を読んだ方がよほど生きる力になるはずだ。」その思いは今も変わっていません。