日本初演は塀の中  武士道と第九  「第九」初演200年③

ベートーヴェンの「第九」初演は1824年5月のことですので、今月でちょうど200年経ったことになります。場所はウィーンでした。 では日本初演はというと、それからほぼ1世紀のちの1918年6月。場所は徳島県でした。日本におけるベートーヴェンの大作のプレミアが、文化の中心の東京でなかったことをいぶかる方もいらっしゃると思います。しかし、それ以上の驚きは、それが戦争捕虜たちによって、収容所の中で行われたという事実です。(これはアジア初演でもありました。)   
徳島県鳴門市の坂東には、かつて第一次世界大戦で捕虜になったドイツ兵の収容所がありました。捕虜収容所というものには、強制労働や虐待や飢えなどの人権蹂躙 (じゅうりん)のネガティブなイメージが伴うものです。しかし、「坂東俘虜(ふりょ)収容所」は、捕虜たちに人権と自由が保障された、歴史的にも稀有な例です。「世界のどこに坂東ほど自由なラーゲリ(収容所)があっただろうか。」。後に解放された捕虜の言葉が表すように、ここでは通常考えられない捕虜生活が実現されていました。 
たとえば、広い敷地には、サッカーやフィールド・ホッケーやテニスができるコートが作られ、池ではヨットが楽しめました。また印刷所もあって、捕虜たちの読む新聞を発行し、女装も辞さない俳優たちで、演劇の舞台が何度も開かれました。オーケストラも複数作られ、数多くのコンサートが開かれています。後の第二次世界大戦中、カナダの日系人収容所でも、野球をすることは許され、かつてのバンクーバー朝日軍の選手たちもそこで活躍したそうですが、坂東では、スポーツの種類が数種に亘っていました。      

坂東では、酒造りも認められ、酒場でパーティを開くことも度々ありました。外出まで許可されていましたので、地元民から「ドイツ さん」の名で親しまれていた捕虜たちからお返しのギフトがありました。町に牧舎を作り、畜産の技術を教え、酪農を産業として 根付かせました。彼らからソーセージやパンの作り方を教わった日本人が開いた商店の中には、今も残存しているものがあります。

この坂東俘虜収容所の奇跡のような捕虜待遇が何から生まれたのかと言えば、所長の松江豊寿の「武士の情け」に尽きます。彼は、白虎隊の悲劇でも知られる戊辰戦争で、官軍に敗れた会津藩士の息子でした。その時味わった屈辱や苦難や悲哀を終生忘れなかった彼は、武士道にのっとり、敗者へのいたわりを持ち続けました。ドイツ捕虜に対しても「彼らは犯罪者ではない。 お国のために尽くした愛国者なのだから、それなりの待遇をすべきである。」 という信念のもと、人間的な処遇に努めたのでした。
しかし、松江のこの姿勢は、陸軍省からの反感を買うところとなり、度々呼び出しを受けたり、食費などの運営費の削減を受けたりと苦難の連続でした。しかし、彼は屈することなく、八方手を尽くしながら、捕虜たちの人権を守るために尽力したのです。そのため、後に捕虜たちが帰国して作った「バンドー会」と称する団体が、長年にわたって鳴門市と交流を続けることにつながっていきます。
「自由の翼のもと、人類は兄弟となる。」シラーの詩「歓喜に寄す」に共鳴して曲をつけたベートーヴェンの「第九」が、そんな坂東の地で初演されたのは、きわめて象徴的な出来事だったと言えるでしょう。その後、鳴門市では第九演奏会が毎年行われ、今年、2024年5月、記念すべき第40回「なると第九の会」が開かれました。世界初演200年と相まって、さぞや力の入った演奏が聴かれたことでしょう。

この坂東俘虜収容所と第九の物語は、後に「バルトの楽園(がくえん)」という映画にもなり、評判になりました。

https://youtu.be/hJqZ8JKGoyM 「バルトの楽園」広告 

https://youtu.be/OeWUS5Z1nJ8 「バルトの楽園」第九のシーン

私はこの坂東の地を三度訪れました。松江所長の功績や地元民と捕虜たちとの交流を称えたドイツ館という建物と、その周辺の収容所跡地を見るためでしたが、三度目は「バルトの楽園」の映画用ロケセットが保存された会場も訪ねました。復元とはいえその収容所セットの中に入ると、疑似体験によって、捕虜たちの過ごした時間が実感されるような気がしました。と同時に、これもかつて足を運んだことのあるポーランドのアウシュヴィッツ強制収容所のことが思い出されました。ユダヤ人たちがすし詰めにされていた粗末なベッドや、命を絶たれたガス室の壁、おびただしい遺体が焼かれた焼却炉の扉などに触れた時の手の感触が蘇って きたことを昨日のことのように覚えています。坂東とアウシュヴィッツ。ドイツが深く関わった両者に歴史の光と闇を見る思いでした。アウシュヴィッツでも、演奏の心得のある収容者による音楽の演奏は日々行われていました。しかし、それはユダヤ人絶滅計画の殺人工場としての収容所をカムフラージュするために、ナチスから強要されたもので、音楽の純粋な楽しみではありませんでした。