不眠の友 ゴールトベルク変奏曲  バッハ

昔から「秋の日は釣瓶(つるべ)落とし」というとおり、すっかり日の入りが早くなりましたね。 最近は「釣瓶」を知らない人も増えてきて、このことわざもあまり通じなくなりましたが…。
秋の夜長は、虫の音を楽しんだり読書にいそしんだりするのが、この季節定番の過ごし方でした。 しかし、なかなか寝られないという、いわゆる「不眠」の人にとって、夜の長い秋から冬にかけては、逆に苦痛のシーズンなのかもしれません。


村上春樹の小説に「眠り」という短編があります。ある日全く眠れなくなってしまった一人の主婦が、その時間を有効に活用すべく、長らく手に取ることのなかった本を読みはじめ、やがて、深夜一人で車に乗って外出する毎日を送るようになるというお話です。彼女はその中で、結婚生活のルーティンに埋もれて失われてきた自己を確認し、目覚めていくことになりますが、この場合、不眠は主人公の人生に何らかの啓示をもたらすものとして描かれているのかもしれません。。 

クラシック音楽にも、読書と同じく、不眠の友とも言うべき傑作があります。バッハの「ゴールトベルク変奏曲」です。 昔、不眠症に悩むある貴族がいました。彼は屋敷で雇っていた若い音楽家に、眠れぬ夜を退屈せずに過ごせる音楽を所望します。やがて、その話が彼の師であるバッハに届いて作られたのがこの曲です。したがって、これは眠るための音楽ではなく、夜長を豊かに過ごすために作られた作品ということになります。曲名の「ゴールトベルク」は、その弟子の名前で、主題(基本のメロディー)のあとにその変奏が30回続くという構成になっています。


もともとはハープシコード(チェンバロ)用に作られましたが、現代ではピアノで弾かれることも多い曲です。そもそも、バッハの時代に、現代のピアノに当たる楽器はまだ存在しておらず、後のモーツァルトのピアノ作品の多くも、本来はチェンバロのためのものでした。しかし、ピアノの先祖に当たる楽器が誕生し、少しずつ進化していく過程で、作曲家たちの関心もそちらに移っていくことになります。ピアノの名手として楽壇にデビューしたベートーヴェンは、生涯を通じて、この楽器を自己表現の重要なアイテムとしましたが、「ピアノという楽器はこれからも音楽家を悩ませ続けるだろう」という晩年の言葉が示すように、死ぬまでその性能には満足していませんでした。彼の死後もピアノは進化を続け、今のような表現力を持った楽器として完成するのは、20世紀に入ってからのことです。そういった次第で、バッハの作品も、今ではピアノで弾かれることが当たり前のようになりました。

トロント出身のピアニスト、グレン・グールドによる「ゴールトベルク変奏曲」の演奏が、この曲のシンボル的なパフォーマンスとしてよく知られています。彼は生涯にこの曲を2度録音しました。どちらも高い評価を得ていますが、聴き比べると、とても同じ人物が弾いたとは思えないほど2つの演奏は異なっていて、その違いには誰もが驚かされます。
https://youtu.be/wwc7p-ynMPA 

ゴールトベルク変奏曲  グレン・グールド(55年デビュー盤) 

https://youtu.be/NvtoaHaG6ao  

ゴールトベルク変奏曲  グレン・グールド(81年再録音