元旦は冥土(めいど)の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし 一休宗純
今年の1月、指揮者の秋山和慶さんが亡くなった。84歳だった。元日に大怪我を負ったというニュースもショックだったが、まさか その月のうちに旅立ってしまうとは・・・。まるで一休和尚の歌を絵に描いたような死だった。
十代の初め頃、友だちから借りた百科事典に入門者向けクラシック音楽のレコードが付いていた。それに毎日耳を傾けて音楽を 楽しんでいたが、ある日、そのレコードの「秋山和慶」指揮「東京交響楽団」というクレジットに目が留まった。秋山さんの名前を知ったはじめだった。おそらくご本人が、音大卒業後すぐに同オーケストラの指揮者に就任した60年代中頃の演奏だったのだろう。
23歳で着任した東京交響楽団はすぐに財政破綻に陥ったため、その立て直しに秋山さんは奔走した。「自分のことはいいから、楽団員の給料を上げてほしい。」そういって経営者側と掛け合ったこともあったそうだ。「その頃、あのオーケストラの指揮者は自分しかいなかったので、ひと月に32回も本番がありましたよ。」後にテレビカメラの前で語る秋山さんはさわやかな笑顔だった。今や世界一長寿のクラシック音楽番組である「題名のない音楽会」が始まったのも、東京交響楽団を救うことが目的の一つだったと言われている。自分も、少しハイレベルのその音楽番組を彩る同オーケストラの演奏風景に毎週のように見入ったものだった。
秋山さんには、名門ベルリン・フィルからの出演オファーが三度あったと言われているが、いずれも固辞している。戦友の東京交響楽団の立て直しの真っ最中だったためである。とはいっても、人間であるかぎり欲を持たないわけはない。しかし、「無私」の精神で自国のオーケストラの未来に向き合ったのではないだろうか。「もしベルリン・フィルのオファーを受けていれば人生は変わっていた かもしれない。」と語る秋山さんだが、一方、「音楽を利用して自分の名声を上げてはならない。」とも言っている。音楽を出世や 自分を美化するための道具にしてはならないという謙譲の美の教えは、後輩指揮者たちに様々な影響を与えているようだ。
その数年後、熱烈なラブコールを受けてバンクーバー交響楽団の音楽監督に就任した秋山さんは、コンサートマスターの長井明さんたちとともに、このオーケストラの演奏レベルを飛躍的に向上させた。その噂が届いたのか、20世紀の大指揮者ストコフスキーの指名を受け、彼の後任としてアメリカ交響楽団の監督を兼任することになる。その間、日本でもNHK交響楽団(N響)や大阪フィル(大フィル)の指揮台に立ち、N響ではオールアメリカ音楽のプログラムを指揮したことがある。今年、創設100年を迎えた N響だが、もともとドイツ系の指揮者とドイツ系の音楽を中心として発展してきた楽団だったので、この選曲は当時画期的なものだった。ラジオ放送されたそのコンサートのエアチェックテープを今でも愛聴している。大フィルもドイツ音楽を売り物とした楽団だったが、秋山さんは、あえてイギリス近代の音楽やストラヴィンスキーのバレエ音楽などを取り上げて、同団のレパートリー拡大に貢献した。(日本では追悼盤として、ご本人が大フィルを振ったヴォーン・ウィリアムズの交響曲のライブ録音が先日リリースされた。)
自分も若い頃、大フィルと秋山さんのストラヴィンスキーの三大バレエや、シェーンベルクの「グレの歌」のような巨大なプログラムを聴いたことがある。また、テレビで見たN響との近代イタリア音楽の特集など、どれも強い感銘を受けたことを覚えている。が、肝心の指揮者の様子が全く記憶に残っていない。それは秋山さんの指揮がバレリーナのように全身を使った激しいアクションではなく、一見地味に見える簡素な動きが中心だったからかもしれない。しかし、分かりやすい堅実な指揮ぶりは、どの楽団からも演奏しやすいと信頼されていた。いわば、プロが評価するプロである。派手な指揮は素人の集団である聴衆を喜ばせはするが、それは闘牛士の赤いマントのようなものかもしれない。色盲の牛はマントの色を識別できず、見ている人間だけがそれを見て興奮する。秋山さんはそういう意味の興奮や感動とは無縁の音楽家だった。「私の理想は指揮者が目立たずに、オーケストラがいい演奏をすることです。」という言葉が何よりそれを物語っている。ここにも無私の精神が感じられる。また後進の育成にも熱心な人だった。
数年前、UBCのチャンセンターにおけるVSOとの久々の共演が、秋山さんを聴いた最後だった。その日の「イタリア」交響曲も、ご本人らしい目の詰んだ演奏だった。終演後、演奏に参加された長井さんのお計らいで、秋山さんとお会いすることができたので、日本から持参していた秋山=VSOのCDセットにサインをいただいた。これは自分にとって秋山さんの形見に等しい。そのセットの中にR・シュトラウスの「死と変容(浄化)」が収められている。ご本人が亡くなった時、真っ先に脳裏に浮かんだのがこの曲だった。死が間近に迫った病床で必死に運命に抗いながらも、やがて力尽きた病人の魂の浄化を描いた作品である。それを聴きながら、志半ばで逝った秋山さんの今際の際(いまわのきわ)の想いを偲ばずにはいられなかった。
芸術は長く人生は短い ヒポクラテス
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