それぞれの「孤独」宮城道雄 長嶋茂雄 村上華岳

「一道を行く者は孤独である」(坂村真民 詩人)
今年、日本は放送開始100周年を迎えた。1925(大正14)年、NHKによる 記念すべきその第1回放送で演奏を披露した音楽家が、琴の名手にして作曲 家の宮城道雄だった。彼の作った「春の海」は正月の定番曲であり、洋楽邦楽を問わず日本人の耳に半ばDNAのごとく残る曲と言える。そのレコードは、 国内だけでも300万枚を越える大ベストセラーとなり、海の向こうまで知れ わたることとなる。フランスの女流バイオリニスト、シュメーのオファーにより、尺八をバイオリンに代えて録音されたディスクも、やはり名盤として聴かれ続けてきた。      https://youtu.be/apm87FlA_qc?list=RDapm87FlA_qc  春の海   琴(宮城道雄) シュメー(バイオリン) 
「江戸期に作られた名曲を忠実になぞって演奏すること」が音楽家の務めとされていた当時の邦楽界にあって、宮城は洋楽(クラシック)の発想を柔軟に取り入れた新作を次々と発表し、世間を驚かせる存在だった。当然のごとく保守層からは伝統の破壊者として不評を買ったが、慣習にこだわらない一般大衆はその音楽を支持し、やがて彼は邦楽界の大立者としての地位を確立していった。しかし、家庭的な不幸や失明など孤独を道連れとして育った宮城は、邦楽の第一人者となってからも、芸術家としての信念と邦楽界という組織との軋轢の中で、家族にも知られぬ孤独を抱えていたと言われる。巡業先に向かう夜行列車からの転落死という形で人生の幕を閉じた宮城だが、線路脇で発見され虫の息だった彼の最後の言葉は「どこかに連れていってください」だった。彼の悲劇は「スーパースターだからこその孤独」であったと言える。
スーパースターの孤独といえば、先月亡くなった長嶋茂雄にも同じことが言える。ミスタープロ野球として巨人軍だけでなくライバルチームの選手にもファンにも愛された彼は、  自分の「見られ方」に力を注いだ人物でもあった。ゴロを取って送球する時の、指先までまっすぐ伸びた華麗なフォームは、歌舞伎の所作から取り入れたもので、全国の野球 少年たちが真似するところとなった。またバッティングでは、わざと大きめのヘルメットを被り、空振りするとそのヘルメットが飛ぶように工夫していたことはよく知られている。  これも、歌舞伎役者が舞台で大見得を切る姿を彷彿(ほうふつ)とさせる。そんな彼は  アマチュア時代から野球の天才と呼ばれてきた。人並外れた才能が長嶋茂雄という存在を作り上げた。多くの人がそう信じていた。しかし、長嶋は人並外れた練習の虫だったのである。野球選手に  とってバットの素振りは大切な練習だが、彼は試合のある日もない日も、ただ一人ひたすらバットを振り続けた。遠征の試合後も、宿に戻ると、日付が変わるまでその素振りは続いたと言われる。チームメートの多くが、長嶋ほどバットを振る者はいなかったという証言を残している。しかし、現役時代、その孤独な練習がメディアで紹介されることはなかった。それについて彼は常々「努力は人に見せるものではない」と語っていた。言い換えれば、 完成されたものだけを見せる。それがプロとしての長嶋の信念だった。
日本画の村上華岳は「製作は密室の祈り」という言葉を残しているが、それは長嶋の信念とも通底するだろう。華岳が人生の大半を過ごしたのは、神戸の花隈(はなくま)という町である。今でこそ閑静な住宅地の花隈だが、当時は京都の祇園を思わせる花街だった。最盛期には500人以上の芸妓と100件を越える料亭が軒を連ねていた。しかし、華岳は芸妓遊びには縁がなく、屋敷にこもり終日作画に明け暮れていた。必ず合掌してから筆を取るのがそのルーティンだった。まるで行者のごときその姿から、いつしか彼は「花隈尊者」と呼ばれるようになる。彼は花や風景を描いた作品を残しているが、仏教を題材とした絵画も知られている。ジョットに心酔しダヴィンチに感銘を受けた華岳の描いた「裸婦図」は、官能と慈愛が同居した作品で、幼い頃から母の愛に飢えていた彼の久遠の女性を描いたものとも言われている。この絵を見たある尼僧は「仏である前に何よりも美しい」という感想をもらしている。
今月、祇園にある京都現代美術館に足を運んでみた。当館が所蔵する華岳の作品を見るためで  ある。たまたま祇園祭の日だったが、山鉾巡行の前日だったため、八坂神社付近に大きな混雑はなく、作品もゆったり鑑賞できた。華岳が孤独な苦行の果てに描いた晩年の「太子樹下禅那」は「仏教画のモナリザ」と呼ばれる作品だが、その現物に対面できたことは、この夏一番の思い出になるかもしれない。