ウィーンに旅する (8)

ある日路面電車で、ウィーン郊外グリンツィングという町にある墓地に行った。アロイシアの父マーティンはウィーン出身で長年シアトル交響楽団のバイオリン奏者だったが、数年前に亡くなった。母ライラはカーティス音楽院では初の女性オーボエ生徒として入学を許され、1948年にはヒューストン交響楽団に首席オーボエ奏者として迎えられ、後にシアトルのワシントン大学でオーボエを教授していたが2022年の暮に101歳で亡くなった。

グリンツィング墓地で両親の灰を撒く

アロイシアの目的は両親の灰をこの墓地に撒くことだった。場所は先年ウィーンを訪れた時に決めたらしい。地中に一つの根を持ちながら地上では二本の木になっている所だ。生涯を音楽に捧げ仲良く長寿を全うした夫妻に非常に適した場所だった。私達は一人一人灰を撒いてから、その上に一本ずつ手に持った白薔薇の花びらを撒いた。灰も花びらもいずれは土に還っていく。何と素晴らしい場所、何と美しい紀念の行為。生涯寄り添った夫婦二人はまた一緒である。
次にこの墓地にあるマーラーのお墓を見に行った。墓石には、マーラーの遺志通り名前だけが刻まれている。次のセクションの、マーラーの墓より一列後ろの列に、マーラーの妻アルマの墓がある。墓標は真黒で名前を判読できない。彼女は50作に登る歌曲を作曲したが、今に残るのは17作だけだという。マーラーと離婚した美女アルマは多くの20世紀初頭の芸術家、作曲家などと関係を持ったが、結婚したのは建築家ヴァルター•グロウピウスと、小説家、劇作家、詩人フランツ•ヴァーフェルだけだった。アルマは、1935年に18歳で亡くなった娘マノンの墓に埋葬された。

マーラーの墓。生年月日などのインフォは一切ない

アルマ•マーラー•ヴァーフェルの墓

桜楓会の会員諸氏は2024年11月にポートランドの日本庭園のキュレーターを30年余りお務めになった内山貞文氏の講演を記憶している方もいられると思う。内山氏のお話の合間にスクリーンに出た画像の中に、海外の日本庭園のリスト(英語)があった。リストを追うと「ウィーン、シェーンブルン宮殿」の名があった。ウィーン旅行の準備をしていた私はこの庭園に行こうと決心した。シェーンブルン宮殿行きが叶った日、私達は宮殿の裏側に回った。これが皇室一家族の所有だったかと思うほど広大な庭が眼前に広がっている。

冬なのに既に庭園の手入れは始まっていて、春になったらさぞかし花園が綺麗だろうと想像した。遥か向こうにネプチューン群像の噴水が見える。そこに辿り着くまでかなり歩いたが、さらにそこを右折して20分は歩いただろうか、全敷地の最東南の端パルメンハウスを越した所に目標の日本庭園があった。日はとっぷり暮れていて庭園全部は見えなかったが、茶庭の木の門と垣根、そして枯山水の庭が見えた。
「この庭園は1913年に回遊式でなく外側から観る庭園として造園され、当時は中央に小さな丘があり滝の水が下の池に流れていた。何十年か後に庭園は蔦で覆われ昔の姿を失った。1996年に当地を訪れた日本人が日本庭園と気付き修復作業が始まった。庭には長寿のシンボル鶴と亀が自然石により表されている。この茶庭には門があり...」の説明板が立っている。お茶室らしき物は見えなかったが庭園修復の記念碑は読めた。